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ぷらちなファーストでーた

3/7(木)に、地元OSAKA・御堂会館で行われたプラチナデータの試写会にいってまいりやした。つうことで、以下感想でございます。公開前日ですので、具体的なネタバレは一切書いておりませんが(触れてもフライヤー程度です)、映画全体への感想となりますので、気になる方はご注意くださいませ。

*

今回しらたきは、原作未読で、ざっくりとしたあらすじ(フライヤーに載っているあたり)だけ得ている状態で鑑賞してきました。なので、ほんとうにほんとうの、ふぁーすとたいむ、で、わたしにとってはじめてのプラチナデータがそこにあったわけなんですが、実は鑑賞直後、とりあえずMUGO…ん、(色っぽい)になってしまいまして…。

どんな種類の映画であっても、鑑賞後は、そこまでの2時間強の想いがワッと、溢れてくるので、第一声に迷うのはそう珍しいことではないのですが、それでも「よかった」「おもしろかった」「つまらなかった」など、とりあえず、ごく単純に浮かぶ感情ひとつくらいは、でてきそうなものなのに(それを実際口に出すかはともかくとして)今回は、自分の中でぐるぐると、なにかが渦を巻いて、一つの単語をとりだすことさえも困難で、とにかく苦労させられました。振り返れば、がつんPAも、鑑賞直後は茫然自失、といった感じで、帰路につき最寄りの駅から自宅に帰るときになって、涙があふれ止まらなくなったのですが、あの時とはまた別の感情の揺らぎを覚えたように思います。

まず、プラチナデータの内容に触れる前に、私のごく個人的な映画感についてなのですが、これまでは「にのさんが演じる」ものを媒介として、眼前に広がる世界に躊躇なくダイブし、身を委ね、心を震わされ、ひとつのカタルシスをむかえ味わい、また現実に帰還する―――、いうなれば受け身の立場での楽しみ方が常なるものでした。
そして今回も、にのさん演じる「かぐらくん」が、媒介者としての役割を十二分に担ってくれたのですが、プラチナデータにおいては、「かぐらくん」が持つ個性【かぐらくんであり、リュウくんであること】により、媒介者が二人になってしまったのです。わたしはこのお話を、あくまで「かぐらくん」のお話として捉えていたのですが、あまりに鮮やかにそこに息づく「リュウくん」は、彼の半身であり、彼のすべてでもありました。お互い相容れぬ「個」を、思いがけず身に宿すこととなった私は、やがて受け身としての位置を逸脱し、「真実」を求め足掻くようになっていったのです。

プラチナデータ、というその単語だけではない、いくつもの「真実」の形を、追い求めた結果、エンドロールが流れるまで実に早く感じたのですが、それも映画に対しこれまでとは違う向き合い方をせざるを得なかったことが、影響しているのかもしれません。ここで「せざるを得なかった」という消極的な書き方を選んだのは、まさにそれは自分の意図する部分以外での動きであり、映画鑑賞後、しばらくしてからその事実にようやく気づかされたからです。そう感じるほどに、この映画は、自身の把握する感情面以外の部分をも浸食し、支配していたように思います。

作中、かぐらくんは、自身を喪い、そして、ラストシーンでそれを取り戻しました。(と、わたしは感じました。)ですが、かれが失ったものと、取り戻したものは、同じものではなかったように思うのです。あえてここでの主語を「かぐらくん」にしたのは、私にとってこの映画は「かぐらくん」のお話だと思ったからですが、リュウにしても同じことがいえると思います。(ただ、この今回のプラチナデータという映画に関して、リュウのものがたりに触れるには、もう少し時間がほしいところです)

何かを喪う現象を、X-y=Z という式で表すなら、Zにyを足せば、本来Xに戻るはずでしょう。しかし、一度失われたyを、再び手にしたときに、実はそれがはじめのyではない、もうひとつのy´になっていたなら―――そこで再生されたXは、X´なのか――はたしてまた別のものなのか。その答えであり、再生した「かぐらくん」を読み込む作業は、映画の枠内を超えて、鑑賞者それぞれが、自分の中で持ち帰り、持ち「孵らせる」ことを望まれたように感じました。

しかしその一方で、わたしはすでに、にのさんの媒介により「かぐらくん」が得た次の姿を、一部体感し、無意識のうちに、一つの答えの欠片に触れてしまった。鑑賞後に感じた言い知れぬ不安感であり、自分の中のことばを、掴みだせない不自由さの原因は、そこにありました。かぐらくんはかぐらくんの真実に触れ、彼自身の再生を行いましたが、その真実のかたちは、それぞれ固有のものであり、彼が手にした真実が、私の真実であるとは限らないのです。それは、かぐらくんだけではなく、プラチナデータの登場人物、ひいては、すべてのひとというひと、に言えることだと思います。

自分の中でそれぞれ独立し、けして混じり合わないような、けれど、確実にわたしという一つの個体の中で、うずまいている感情。それは、作中の「かぐらくん」が、もうひとりの彼、「リュウ」を、持て余していた気持ち(逆も然り)に、どこか似ているように思えます。彼は何かを得ている。しかし、自分はそうではない。得ていることをどこか感覚的に知っているのに掴めない歯がゆさも、作中でかぐらくん越しに体感したものを、もう一度なぞっているようで、自身の感情を把握しきれない不安感は、なんともいえないものでした。鑑賞後、1週間を経てもなお、渦巻くもの。それもすべて計算づくなのだとしたら、このプラチナデータという映画はなんという恐ろしい映画だろうと思いますし、にのさんというひとは、なんという役者なんだろうと感動すると同時に畏怖せずにはいられません。

このかんそうぶんを最後までお読みいただいて、いやいやおまえさん見当違いな見方してるよ、と思われることもあろうかと思いますし、映画に限らず、すべての感想というのは、そういうものだと思います。それでも私個人の話に限って言えば、ここに到達するまで、これだけ映画のことで頭をいっぱいにさせてくれたのは、この解釈に正解不正解なくとも、ただひとえに、映画に「力」があったからに違いないと思うのです。



*****

公開初日、当日は旅に出ておりまして、親愛なるみなさまと映画についてわかちあい歓びあうことがかなわないのが残念ですが、それにさきがけ、試写会という機会を与えてくれたのは、にのさんからの粋な計らい(そして公開翌日に誕生日を迎えるしらたきへのプレゼント)と勝手に思い込んでおきます。正直、公開日が判明した時は、アーモウダメーン…!!!(旅行決まってたもんで)って絶望したものですが、おかげさまで一生この映画公開日は忘れないことでしょう。そうおもうと、ありがたいことです。

…でもやっぱりビューイングみたかったよぉぉぉぉぉぉい!おろろーんおろろろろーん!
ぶるれい得点でびゅーいんぐもちらっとでもはいってくれたらいいのにな。よろしくおねがいしますぷらちなすたっふぅさま!

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| | 2013年03月17日(Sun)14:41 [EDIT]


 

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